マスク買い占めをどう思う?奥底にある自分最優先の心とは

新型コロナウイルスの流行により、感染対策としてマスクを買い求める人が急増しました。ドラッグストアやスーパー、通販など、多くの場所でマスクが品切れとなり、転売による価格の高騰で、政府が対策に乗り出す事態となりました。なぜ買い占めが起きるのでしょうか。心理学での解説も多くありますが、L大では芥川龍之介の『蜘蛛の糸』からピンチになると自分を優先してしまう人間の奥底の心に迫ってみたいと思います。

新型コロナウィルスによって生じたマスクの買い占め現象

研究によれば、不安から一部の人が初期の買い占め行動を起こします。すると商品が品薄になります。その様子が報道されると今度は一般の人々の買い占め行動が起きます。そして、売り切れ在庫切れになってしまいます。「手に入らなくなるのではないか」という不安と、「品薄である」という情報から買い占めが起きるのです。

SNSを始めネット上に飛び交う情報もですが、マスコミの報道も買い占めに影響します。マスコミは、多くの場合、平和なものよりパニックを好む傾向があります。今回も、店からマスクがなくなって空になった棚や、大量のマスクがあっという間に売り切れる様子が、繰り返し報道されました。

マスコミの報道によって、一部の人の買い占め行動が知られるようになると、一般の人々にも不安が広がります。一部の人の買い占めでいつもより商品が少なくなっているところに新たな買い占め行動が起きれば商品は売り切れとなります。大抵の人は、売り切れた状態を見て、異常事態が発生しているように感じます。そして、「まずは自分と家族を守らなければ」とみんなが大量に買いに走ります。これが買い占め現象です。

当初は一部の人の過剰反応だったものが、一般の人の生活防衛としての買い物になり、マスク不足が広がりました。自分が購入することでより品薄を加速させるとわかっていても、「ここで買っておかないともう手に入らないかもしれない」という不安からやっぱり買ってしまうのです。

芥川龍之介が『蜘蛛の糸』で表わした買い占めの奥底にある心

教科書などで読んで内容を知っている人もあると思いますが、一度、芥川龍之介の小説『蜘蛛の糸』の大まかな内容を振り返ってみたいと思います。

『蜘蛛の糸』あらすじ
ある日のこと、極楽の蓮池の周りを散歩していたお釈迦様は、ふと池の中をご覧になった。澄み切った水を通して映し出されたのは、地獄で苦しむ亡者どもの姿。その中にカンダッタという男がいた。生前は大泥棒として悪事の限りを尽くした男だった。お釈迦様はこのカンダッタも、たった一つだけ良いことをしたと思いだされる。極悪人のこの男も、ある時、蜘蛛の命を奪わずに助けたことがあったのだ。何とかこの悪人を救い出そうと、お釈迦様は極楽の蜘蛛の糸を蓮池から下ろされた。血の池地獄で溺れ苦しむカンダッタは、目の前に銀色の細い糸が垂れてきたのに気づく。「これさえあれば助かる。地獄から抜け出せるかもしれん。」そう考え、彼は極楽目指して糸を上っていった。遥か上まで登り、カンダッタが一息をついていると、地獄の亡者たちがこぞって細い糸を上ってくるではないか。焦りに焦り、糸を振ってなんとか亡者を振り落とそうと試みる。なおも上ってくる罪人たちに、「これは俺のものだ」と叫んだ、そのとき。プツリと音を立てて、糸は切れてしまう。カンダッタはくるくると回りながら、真っ逆さまに血の池地獄に落ちていった。この一部始終を見ていたお釈迦様は悲しそうな顔をなさると、再び極楽をぶらぶらと歩いていくのであった。

「なんでそんな切れやすい糸を使ったの…?」と疑問になる人もあるかもしれませんが、これに関しては、「縁」という点から説明ができます。大泥棒のカンダッタが行った善行は「蜘蛛の命を助ける」という行為です。蜘蛛を救ったカンダッタは、蜘蛛との間に「縁」ができました。仏教では「縁」を非常に重視しており、「縁がなければ助けられない」とまで言われます。なので、お釈迦様がカンダッタを救うにも何かの縁が必要でした。それが今回の場合は蜘蛛であり、その糸が使われたのです。

亡者たちが上ってくるのを見て焦ったカンダッタが、「これは俺のものだ!」と叫んだところで、糸は切れてしまいます。 彼がこのように叫んだのは「自分さえ助かれば、他のものはどうなってもいい。」という心からです。 仏教ではこのような「自分さえよければ」という心を「我利我利(がりがり)」と呼び、自分も他人も不幸にするとして嫌われます。この物語では「我利我利では本当の幸せにはなれない」ということを、蜘蛛の糸が切れ地獄へ落ちると表現しているのです。

蜘蛛という縁を見つけてカンダッタを助けようとしたのでした お釈迦様も縁が尽きてはどうしようもありません。 彼を助ける唯一の縁手掛かりが蜘蛛の糸だったのですが、それすらもなくなってしまったということです。カンダッタは自らの無慈悲な行動で、助かるための蜘蛛の糸を切ってしまったということですね。

自分さえよければいいという自分最優先の心

自分さえよければいいという「我利我利」の心は欲の本性とも言われます。本性というのは「ついに本性を現したな」というように普段は表に出ることはありません。しかし、ひとたびピンチになったときに、むき出しになるのが本性です。

私の通う大学は、最寄の駅からバスで35分かかります。授業の開始時間にぴったりの便はいつも乗れるか乗れないかの大混雑です。早めに家を出ていて余裕があるときは、急いでいる人がいたら「先にどうぞ」と譲ることができます。しかし、この便に乗らないと進級のかかったテストに遅刻するとなったら、「先にどうぞ」と言えるでしょうか。それどころか「私を先に乗せて!」と人ごみを両手で掻き分けて我先にバスに乗り込もうとするような心が出てきます。このようなときは、私が乗ったことで乗れなくなる他人のことなど構っておれません。焦っているときやピンチに陥ったときに、「自分さえよければ」と自分を最優先する我利我利の本性が出てくるのです。

マスク不足も、私たちをピンチな状況にしています。SF映画や戦争映画では、品不足の中、奪い合いや暴動が発生し、人を傷つけたり社会が混乱していく姿が描かれます。パニックが発生したとき、自分だけが助かろうとすることで、より一層パニックが広がり、他人も自分も危険にさらされてしまうのです。頼みの糸を自ら断ち切ってしまった『蜘蛛の糸』のカンダッタの姿そのものです。私たちの「自分さえよければ」という心が生み出す悲劇が描かれているのです。

まとめ

買い占めが起きる根底には、ピンチになったときにむき出しになる我利我利の本性があります。「自分さえよければいい」と自分の都合や利益や幸せだけしか考えていない行動は、結局、他人だけでなく自分も苦しめることになります。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』は、そのような私たちの姿が描写されています。ピンチのときにこそ思い出して、自分にとっても他人にとってもよい行動を心がけていきたいですね。ちなみに、自分も他人も幸せになることを「自利利他(じりりた)」と言います。これについては、またの機会に書きたいと思います。

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